シンガポールという国の成り立ちと民族構成

オーチャードではロシア・ウクライナ・ベラルーシからの金髪美女(?)、ゲイランでは東南アジア各国からの出稼ぎセックスワーカーが集う人種のるつぼ的存在ともいえる、都市国家シンガポールですが、歴史的観点から見ると、他国による支配や分裂の繰り返しの後、独立する事によって今の形になったというのはご存知でしたか?

シンガポールの歴史概要

7世紀頃 漁村テマセックとして知られ、地理的好条件から様々な国の船が寄港していた。文献によると14世紀までこの「テマセック」という名は用いられていた。

14世紀末 「ライオンの町」を意味する「シンガプーラ」と言う名が定着。現在の「シンガポール」の名の由来になっている。

〜16世紀 マジャパヒト王国→マラッカ王国→ジョホール王国の順で支配下になる。ジョホール王国はオランダと協力してマラッカ王国を倒したポルトガルを追い出した。

といった感じです。

その後、イギリスによる植民地支配の時代に突入します。

 

イギリスの植民地時代

19世紀初め頃、アジア貿易を目的に設立されたイギリスの東インド会社の書記官であったトーマス・ラッフルズがこの島の「貿易港」としての可能性に着目し、島を支配していた「ジョホール王国」から正式な割譲をとりつけ、イギリスの植民地としました。

名称もイギリス英語風の「シンガポール」に。

このイギリスによる植民地化のおかげでシンガポールは都市化が進み経済発展を遂げます。

シンガポールは同様にイギリスの植民地であった中国、インド、オーストラリアの三角貿易の拠点になっていた為、多くの移民が流入しました。これが現在の多民族が多く共存するシンガポールの文化の始まりとも言えます。

経済発展を遂げましたが、その裏では独立を抑制するために労働層であるマレー人達への奴隷制度も有りました。

この頃から蓄えられていた奴隷制度に対する反感のエネルギーが、後の独立運動に繋がります。

 

一度は日本の支配下になった事も

1941年、太平洋戦争の影響でイギリスと対立関係にあった日本による攻撃を受けます。

それによりイギリス極東司令官は無条件降伏。シンガポールは日本により「昭南島」と改名され制圧されました。

暴動を抑えるために、反日感情をもつ中華系民族を中心に選別し、徹底的な弾圧を行いました。(シンガポール華僑虐殺事件)

ブログ村

 

再びイギリス領になるが独立への流れが生まれる

1945年、日独伊三国同盟の敗戦によりシンガポールは再びイギリス領になりました。

シンガポールは再三に渡って独立の道を閉ざされる事になりましたが、終戦後、イギリスは戦勝国であるものの戦争で大きなダメージを負っており、祖国とは遠く離れたシンガポールを統治する力もなくマレー半島の独立運動を抑え込めませんでした。

その結果1957年にマレー半島内の一部が、ペナン・マラッカを中心に「マラヤ連邦」として独立。

6年後には、シンガポールを含めた「マレーシア連邦」を結成。

しかしマレー人を優遇をしたいマレーシア中央政府と、イギリス領時代に流入した華僑とマレー人の平等政策を勧めたいシンガポール人民行動党(PAP)の間で対立が起きる。

1965年、ラーマン首脳がマレーシア政府与党とシンガポール人民行動党の両者の融和は不可能と判断し、両首脳合意の上でシンガポールはマレーシア連邦から追放される形で都市国家として分離独立。

 

独立後の発展

独立後、シンガポールは土地による資源が無いに等しく、水源などの天然資源をマレーシア連邦に頼ったままでしたが、それでは政治的・経済的に支配下にある状況と同じとして、軍事政策や経済政策に力を入れ始めます。

スイスを手本に、基地の設立やASEAN諸国との軍事連携を。資源のなさをカバーするため、税制優遇で外国資本誘致を行いました。

政府介入で一気にインフラが整備された後は、観光立国として、現在のようなアジア随一の先進国の一つへと成長を遂げました。

 

現在の民族構成

以上の様に様々な内戦や戦争、民族間の抗争に巻き込まれてきたシンガポールですが、現在のシンガポール人(シンガポール国籍を持つ人)の割合は、全体の97%を中国系・マレー系・インド系が占めています。

またそれらの割合ですが、

・中国系74%

・マレー系13%

・インド系9%

となっています。

それらを除く3%ですが、欧米人やフィリピン人、マレーシア人、日本人がいます。

また国内の人口の内、7割がシンガポール人で3割が外国人という非常に国際色豊かな数字が見て取れます。

現在の国際化社会では、これも過程はどうであれ、複雑な歴史の上に成り立っているシンガポールの強みだと思います。